大阪のもう一人の父親の話

私の前職では東京・神奈川を拠点にした会社でしたが、西日本も開拓しなければならないと、当時私も独身の24歳で好奇心旺盛、住めば都の性格から「私が大阪行って開拓してくるわ~」と大阪に住み始め、結果、そのまま大阪に根を張ることになり、今に至っていますので20年以上前の話です。

大阪に出てきた当時、大変お世話なった、血のつながりはないものの私にとってもう一人の父親的な存在になった方(『第二父』と呼称)の話をします。
ちなみにその方は父と言うよりも、年齢的にはおじいちゃんと言うべき年の差で、ご本人は戦争にも行っていたくらいです。もう10年以上前に他界されており、今日お墓参りに行ってきました。

大阪の父親

大学を出て2年経つ頃、親父が脱サラをするから一緒に事業をやろうと誘われ、私も自身の夢を諦めて何をしていこうかと思っていた矢先だったこともあり渡りに船で「おお、いいねやろうよ」と親父と事業を始めました。
機械工具を中国で製造し輸入販売する事業で、それが私の前職でした。今でこそメイドインチャイナは当たり前ですが、当時は「中国製なんて安かろう悪かろうで中国製なんて買うもんじゃない、やっぱり日本製が一番」という時代でした。

親父の性格からある程度は覚悟していましたが、絵に描いたような『どんぶり経営』でした。親父は「俺は中国に行ってモノを作ってくるからお前は日本のこと頼んだぞ」と23、4歳の私に日本の顧客開拓を丸投げして中国へ行ってしまいました。
そして売り先も決まってないうちからバンバン中国から仕入れするものだから、あっという間に開業時の資金は枯渇してしまいました。

どうするんだと思ったら「大阪に頼れる人がいるから一緒に訪ねよう」と連れていかれたのがその『第二父』でした。

聞けば親父のそのまた親父、つまり私のおじいちゃんと戦友のような関係で、戦後、いわゆる開拓兵となって地方の開墾・開拓で私と親父の実家の長野県にやってきて、おじいちゃんと意気投合し、一時期は幼少の親父の面倒もよく見てくれて家族同然に暮らしていて、親父にとってももう一人の父親のような存在だったと。
その後、地元の大阪に帰られて事業を始めてひと財産築かれて今は隠居しているそうだと。

「へえ、で、その人とは連絡取り合ってたの?」と親父に聞くと「いや何十年ぶりかな。お前が生まれた時に報告した時以来だから20数年ぶりかな?」と。

え?20年も疎遠にしてた人にお金の無心に行くの?と驚愕しましたが、とにかくその時は藁をもつかまないといけない状態で私はただ付いていくだけでした。

『第二父』は私達親子をそれはそれは暖かく歓待してくれて「そうか~事業を始めたか~、それはそれは大変だろう、で、なんぼいるんや?」と言うではありませんか。
親父も親父でしれっと「○○○万円あれば軌道に乗ります」なんて無心するので、私は当時の会社の状況が先の見えない真っ暗闇の状況を知っていたので、よく言えるな~と内心ドキドキしていました。
ところが『第二父』は二つ返事で「よっしゃ、いつまでに振り込んだるわ」と。
その時はわけもわからず、きっと二人には私には想像できない深い絆があるのだろうな…くらいに思っていました。

その後、冒頭のように私が大阪に拠点を構えることになったのですが、お金に余裕も無かったので、そこでも『第二父』を頼ることに。
なんと『第二父』の家に居候させてもらうことになったのです。
居候といっても。その家は娘さんの家族と二世帯住宅の4階建てビルだったのですが、4階が空いているとのことでそこに住まわせていただいたのですが、階は隔てているとはいえある意味で娘さんのご家族とも同居するような形に。

正直、気まずい。でもそんなことを言っていられる状況ではありませんでした。
「大阪来るならうちで居候しながら仕事したらいい!」という『第二父』からの申し出もあり、お金も借りている立場ながら、返済するためにも西日本で顧客を開拓して売り上げを伸ばさなければならなかったし、かといって事務所を借りて…などという資金的ゆとりもなく、面の皮厚くお世話になることに。

当然のことながら娘さんのご家族にご挨拶をすることになったのですが、どこの馬の骨ともわからないような親子がお父様からお金を無心し、あろうことか居候まで…、正直どの面下げて娘さんのご家族に顔を合わせたらいいものか…。

そんな私をご家族にご紹介する際に『第二父』は、

この歳になって私にもう一人の息子が出来ました。とても嬉しく思う。皆にとっても新しい家族だ。皆よろしくやっていってくれ。

と紹介してくれました。

そして娘さん家族も「困ったことがあったら遠慮なく言うてね」と本当に暖かく受け入れてくれました。

その時の私の心境は「お前誰やねん?おとん(父)を騙して金目当てで近づいて来てるんちゃうやろな?」という目で見られるんじゃないかと震えていた私からするとただただ「いやいやいやいや…ええええ……」と恐縮するばかりした。

居候中もそれはそれは気にかけていただき、ことあるごとに事業家として、商売人として、商売の何たるかについて薫陶を受けました。
何より本当の息子、家族のように私を扱っていただきました
出張から夜遅く帰れば起きてこられて「飯は大丈夫か?風呂湧いてるから入れよ」と声をかけていただいたり、「明日は何時に出るんだ?じゃあ何時に一緒に朝食を取ろう」等々。

これは絶対に裏切ることは出来ない、絶対にこの事業を軌道に乗せて恩返ししなければ…と必死になったのは言うまでもありません。

その後、ご支援の甲斐あって徐々に事業が軌道に乗り始め、居候生活も1年程度で卒業し、また数年後に借金も完済することが出来ました。

ただ、ちょうど今の私の奥さんと結婚を…という頃に病気を患い鬼籍に入ってしまわれました。
ご家族の方に「おじいちゃん、亡くなる前に田中さんの子どもさんを見たかったって言ってたわよ」と言われた際は涙が止まりませんでした。

多分、本当の親父が亡くなってもここまで泣かないんじゃないか、と思えるぐらい、今でもこのエピソードを思い出すと込み上げてくるものがあります。

私の親父も幼少期に生活を共にしていただけで、どこまでの信頼関係が『第二父』とあったのか伺い知ることは出来ませんでしたし、ましてそのまた息子である私にここまでの信というのか、情というのか、かけてくださった心の内は今でも正直理解出来ません。

理解出来ませんが、間違いなく今の私があるのはこの『第二父』の存在のおかげです。

そしてそれは、うまく言葉に出来ませんが、今、事業家としての私の経営観や理念、人材の捉え方に少なからず影響を与えています。

以上、私の大阪のもう一人の父親の話でした。


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