「水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない」に思う
自分(達)の今があるのは誰のおかげか?ということを忘れない大切さを指す故事です。
私も今の自分があるのは、あの人のおかげだなと思う人が何人もいます。
「井戸を掘る」という行為を個人に置き換えると、「学ぶ」ことであったり、「経験を積む」ことであったり、「技能・ノウハウを習得すること」であったり、それらを「体系化すること」と言えるでしょう。
現実的には自分という個人に対して「誰かが井戸を掘って提供してくれる」という甘い現実はありません。
仕事で多少なりとも成功するには、
「ここに水脈があるよ。井戸を掘ってごらん。」というヒントを与えてくれたり、「こういったケースはここに水脈があるケースが多い」と経験談を教えてくれる、人物のとの出会いやそういった情報に触れる機会(チャンス)に恵まれるケースがあるかないかがまずは第一関門のような気がします。
まれにビジネスセンスの塊のような人は誰彼に教わることなく水脈を掘り当てる人もいますが、私のような凡人はそうはいきません。
次にそういった出会いや導きの機会(チャンス)に触れて、「よし、信じて井戸を掘ってみよう」と行動を起こすかどうかがその次の関門でしょう。
「掘ってみても本当にそこに水脈があるかどうかなんてわからない」
「どこまで、どれくらいの期間、掘り続ければいいのか?」
「水が出るまで掘り続けているその間の生計はどうやって立てればいいのだ?」
「水が出たとして、どれくらいの水の量が確保できるのか?」
そういった思いが先に立ってしまい、行動に移せない人も多いことでしょう。
幸いにして私は今の仕事に関して、「ここに水脈があるから掘ってごらん」「こうやって掘ったらいいよ」と教えてくれた、師匠と言える人との出会いがありました。
しかし、現実には掘り続けるという過程の苦しみは、やはりあります。
水が出るまで掘り続ける間は、
掘り方が悪いのか?深さが足りないのか?
疲労もあり、痛い思いもします。
そもそも本当にここを掘り続けて水は出るのか?
果たして水が出たとしてそれで潤える(生計が立てられる)ほどの量が出るのか?
情けないことに、せっかくヒントや助言を与えてくれている人に対し、本当に信じていいのだろうか?という疑心暗鬼も起きます。
水が出るまでの間は収入も乏しいので当然、食うや食わずの生活です。
さすがに助言してくれる人に恵まれたとしても、当然のことながら、掘り続ける過程(水で潤えない間)の生活の保障まではしてくれません。現実は甘くない。
ここで苦しくとも掘り続けることが出来るかどうかが自立できるかどうかの分かれ目なのでしょう。
今の日本の社会や世界的な地位があるのはおじいちゃんや団塊の世代のおかげで、私の世代やその下の若い世代は「水を飲む」ことが出来ている。
一方で、個人の人生という視点で見ると先人達や先輩、先生、師匠といった存在を得て、自らが井戸を掘り続けることが人生そのもののような気がします。
努力の成果があり、運あり、縁ありで水脈に辿り着いた時、「ここに水脈があるよ」と教えてくれた人への感謝・恩は忘れてはならないでしょう。
同時に、掘り続け、水脈にまでたどり着くまでの過程を経たそれぞれの個人の継続した努力も不可欠です。
悲しいことに、現実にはとかく、
「水脈がここにある、と教えてやったのは俺だ」
「いやいや実際に掘ったのは俺だ」
とどっちが偉い、みたいな話になることがあり、それはナンセンスで悲しいことです。
企業で働く研究者の発明が企業のものか、研究者のものかで訴訟争いになるのも似たケースかもしれません。
「水を飲む人は井戸を掘った人の恩を忘れない」ことは大切です。
現実には誰かが掘ってくれた井戸の水で人生安心なんてことは無く、自ら掘り続ける努力なくして自立はあり得ない。
その過程でヒントを教えてくれたり指導してくれた人への感謝は忘れてはならない。
でもやっぱり、現実にはその人はヒントや指導はしてくれても生活の保障はしてくれないから、感謝しつつも最後はやっぱり自己努力が不可欠という経験談でした。